はじめに

 
この「文化的体験」のコラムを書いた趣旨は、「必要以上に言語化された長い文章をすべて読んでいただきたい」ということではありません。

私が本当に伝えたいことは、⑷のコラムに詰まっています。読むのがしんどいと感じた瞬間にを先に読んでいただきたいです。
 

文化と芸術

 
TAP教育企画が「文化的体験」という言葉を使うとき、その「文化」には世間一般で言われる「芸術(art)」の意味合いが多く含まれています。そのため、ここでは私なりに「芸術とは何か」について考えてみたいと思います。

芸術の定義とは、本来極めて複雑なものであり、私なんぞが大口を叩いていいことではありません。けれども、このコラムページは私の小さな王国で、そこでは好き勝手に暴論を展開することを私が良しとしています。以下、私なりの「芸術の定義」について綴っていきたいと思います。

前提として、私が以下で「芸術」という言葉を用いるとき、それは主に西洋の価値観における芸術を意味しています。東洋、あるいは世界の他の地域における芸術観については、正直なところ私には十分な理解がありません。また、本来であれば、「芸術とは何か」という問いについて意見を述べるには、ある程度の先行研究や他者の議論に目を通したうえで、自分の意見を形成するべきだと私は思っていますが…人生は短いですし、この質問はよく受けるので、これも何かのタイミングだと割り切ることにします。これから書くことは、私が現時点で考えていることです。今後考え方が変わる可能性が十分あることを考慮して読んでください。
 

芸術を「定義する」ことについて

 
「芸術とは何か」を定義しようとする――すなわち、言葉を与えて説明しようと試みる。
まずは、この姿勢そのものについて考えてみたいと思います。

カミール・パーリアという私の好きなアメリカの大学教授がいるのですが、彼女は著書「性のペルソナ」でこう書いています。

名前と人格は西洋の形式探求の一部である。西洋は物体の個々のアイデンティティにこだわる。名づけることは知ることであり、知ることは支配することである。(中略)西洋人は見ることによって知る。私たちの文化の核心にあるのは知覚による諸関係であり、これが芸術への測り知れない寄与を生んだのである。私たちは自然の中を歩きながら、眼で見て、特定し、名前を付け、認識する。この認識こそが私たちの厄除け、つまり恐怖を払いのける御札である。

 
何か言葉で説明し難い概念がある時、我々がなんとか言葉を組み合わせて説明しようとすることは、至って(西洋的な観点から言えば)普通の姿勢なのかもしれません。芸術という、混沌としていて抽象的な概念を、論理的に言葉を用いて説明することで、「わからないもの」を「わかるもの」という認識に変えようとする。これにより、わからないものへの恐怖を拭おうとするわけです。

漠然とした考え―つまりカオス―に言葉を割り当てることで思考を整理し、概念をより明確に認識する。芸術が何かを定義しようとするのも、これと同じ作業です。しかし、そもそも芸術は定義され得るのでしょうか。
私は、何かわからないものに接した時に、必ずしもそれを言葉で説明する必要はないのではないかと感じています。芸術もそうです。漠然と「これは凄い…」と感じるだけで十分ではないでしょうか。いくら芸術を言葉で定義をしようとしても、芸術の内容はそもそも言葉で表せないものです。音楽も、絵画も、文学も――それらは一語ではとても言い表せない「何か」を表現しているのです。

あるものに、言葉を、理路整然とした説明を与えると、「自分のものにしてやった、これで理解したぞ」という快感を感じることがあると思います。先述のパーリア女史の言う通り、「知ることは支配すること」なのです。これは、実に西洋的なアプローチでの「わからないもの(とそれに対する恐怖)」への向き合い方です。しかし、芸術のように心に深く作用するものについては、もう少し精神的な―何か高次元のという意味での―向き合い方があっても良いのではないかと私は考えます。

人も芸術も、全てを知りわかってしまったら、魅力が無くなってしまうと思いませんか?私は、人でも作品でも、説明され得ない部分を見つけた時に、より「胸の高鳴り」を感じます。それは、広大な砂浜に立ち海を眺めている時や、地面に寝転がって星空を見ている時の感覚に似ています。誰にも支配されないものに宿る、誰にも解き明かすことのできない神秘。芸術の定義が何かということも、解き明かされず、謎のまま私の前にただ在って欲しい、と私は思うのです。

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